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2010-08-28

自己肯定力

最近つくづく、これが重要だな~と感じます。
自己肯定力です。
育児にしても、恋愛にしても、取り組む仕事や作業しても、それらの安定した力の源は、自己肯定力の大きさにほぼイコールなんじゃないかと思うからです。
簡単に言うと、自分を愛している分量くらいしか、身内も他人も行いも、愛せない。と言うことです。

今年はお盆過ぎまで、中2の娘が、まったくというほど夏休みの宿題を始めようとしませんでした。小1から中1までは、7月中に全部済ませてしまう子だったのに、どうしたんだろう?そう思っていたのは、7月。そして8月に入り、娘ののんきさに「どうしたもんだろう~」と思いお盆を過ぎ、段々苛立つ気持ちに変わってきました。それでも、「宿題やりなさい!」と言う言葉は、つぐんでいました。「何が娘に起こっているんだろうな~」じ~っと様子を観察していました。

同時期、私は、私の母に対して、久しぶりに苛立ちを覚える出来事が起こっていました。ここ近年は、今更に母に対して腹をたてることもそうなかったのに、近頃はどうも諸々のことが目につき、鼻につき…。

「あ~。これって、私自身の中に、なにか起こっているんだろうな~」娘でも母でもなく…

最近の私は、他人にではなく、「自分への思いやり」と言うものを考えていました。
それまでの人間関係において、「ノリ」で同調したり、「付き合い」で、連れだって行動したり、気配りが出来るよう…、相手に不快感を与えていないか…など、「こういうものだ」「するものだ」という感覚で、無意識に行動している事などを、ふっと、考えてみたんです。

「自分は満足しているか。」

じ~っと、自分の心を見ていると、他人や環境への気配りで、そういう行動してとるときと、自分を過少評価しているために、行動をとる時があることに気がついたんです。
例えば、物を差し上げるという行動。この人に使っていただけたらな~。と思いお渡しすることと、何かお渡ししなければ、同等でなないような気持ち。
行動としては、「差し上げる」という同じ行いですが、その行動を起こす発端となる感情は、全然違います。

居心地の良くない場所、空間、関係などでも、そういう感覚が立ちあがってくると思います。
この場では、大人しくしていなくては。
この場では、自分がコマゴマ動かなくては。
自分以外の誰かが、居心地良く過ごしていただくために、自分はどう行動すればいいのかを、あれこれ考えたりするときです。
このときに、自分以外の方々に、居心地良くしていただこうと行動するときは、自分も居心地が良いと思います。そして、他人も居心地がいいと思います。
ところが、自分は、この場にいることはふさわしくないかもしれない。何か、お手伝いしなくては、居にくい…不快感を与えないよう大人しくしていなければ…なんて思って行動している時には、自分も他人も、あまり居心地は良くないものだと思います。

そんな風に色んなことを見ていると、なんだか他人をどうこうではなく、まず自分ではないか?と気づいたんです。

お盆あたりの私は、手をつけたくて手をつけられていないことがありました。そんな自分を「ダラダラして駄目だな~」「私の嫌なところだ!」と思ってました。
この感情は、母にも同時期思っていました。母の、ダラダラして面倒がるところが鼻についていたんです。そう娘にも。
「これだ!」
母も娘も、だったんです。
そう気づいてからは、不思議と手つかずにしていたこともスラスラ出来るようになり、母への感情も消え、娘が宿題に手をつけたんです。ま~これは、いくらなんでも日にちが無いからだと思いますが(^^;)。

もしそうだとすれば、人生を楽しむ。愛し愛される。豊かに生きる。それらは、
自己肯定=自分への信頼=自分を愛する度合いによって、変わってくる。造っていくことができるんじゃないかと思うのです。

育児を楽しむ。素敵な恋愛をする。豊かに生きる。などは、育児書通りにしても、沢山の出会いがあっても、モクモクと働いたとしても、そう簡単にいくことばかりではないと思います。自分を愛するだけしか、他人も、物事も愛せないと思います。でも、自分を愛すって?よくわかんない。どうすればいいの?方法は、色々あるみたいですが、その中の1つ。

ハワイでは、よく使われている言葉(ホ・オポノポノ)だそうですが、私は、神様でもなく、おまじないとしてでもなく、私自身に言うんです。
4つの言葉です。
「ごめんね」「ゆるしてね」「愛してるよ」「ありがとう」

半年~1年くらいかかったかな~。朝も昼も夜も心でつぶやいて…
この言葉が、単なる言葉ではなく、しみじみ、今は、心に響くんです(^-^)☆



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2010-08-14

育児は育自

毎日暑いですね~。
近頃は、蝉さんの鳴き声のパワーが、日毎に静かになってきました。
台風も到来し始めていますから、暑さのピークは過ぎたのかな~。

暑い暑い!早く熱い夏は終わらないかな~。な~んて思うと、夏はなかなか終わりません。長~く、厳しく、暑~い夏のように感じます。
ところが、あ~宿題まだだしな~。海にもまだ行きたいし、もう少し夏を満喫したいな~。なんて思うと、夏があっと言う間に過ぎて行ってしまうような気がします。
勝手なもんです(^^;)。

さて最近、幼児虐待などのニュースをよく耳にしますが、「どちらが、親で、どちらが、子なのか?」と疑問を感じます。子を持つ私としましても、「こんなはずじゃなかった…」などと、幾度も自責の念にかられたり、子供を責めたり叱ったり…の、経験があります。もちろん今も奮闘中ではありますが、子は子で、決して親の思うようにはいかない。一個の人間なんですよね。

わかってはいるけど、どうにもならないこと。どうにもできないこと。世の中には沢山あると思います。
しつけと自由。厳しさと優しさ。さじ加減をちょっと間違えば、「こんなはずじゃなかった;」「どうすればいいのかわからない:」。親もすぐに育児の迷子になってしまいます。
ついつい過剰に叱ってしまう。イライラのピーク!!時折訪れる子供の頃の未消化な記憶…

私は親でなく、「私は子供です。」と考えるようにしているんです。
子育ても、3人4人5人…と経験すれば、立派になってくるかもしれません。だけど、1人目なんて、親も初めての経験ばかりです。母性と、本能と、自分が育てられた記憶と、育児書、周囲の方からのアドバイスなどを、試行錯誤でやることがほとんどだと思います。知識の面では、育児書やアドバイス。でも実のところ、母性、本能、記憶が多くを占めると思うのです。
自分が育てられたように育てる。これが、もっとも一般的ではないでしょうか。

現実の中では、親→私→子供ですが、子育てをしていると、この→が、親⇔私⇔子供と感じてなりません。
子育てをするなかで、自分が育てられた記憶が断片的によみがえり、子育てをしながら、親のありがたみがわかるOR自分の親に対する怒りがよみがえる等…。未消化であった幼児期成長期の、親に対する思いが、子育てを通じてよみがえり、ついに葬る時が来た!ということではないかと思うのです。
逃げ場のない、子育てをきっかけとして、親を理解し、自分の心の叫び声に耳を傾ける。その機会が、子育てという事なのではないかと。

子供の頃、迷子になったら、何を求めましたか?
目的地ですか? 帰り道ですか? 親切な大人ですか? おまわりさん?
迷子になって泣いている子は、親にぎゅっと抱かれることが一番の安らぎだったでしょう。
子育ての迷子になっているときの私たちも、探している、求めているのは、正しい答えではなく、あの安心感かもしれません。
早く抜け出したくて、早く答えを見つけたくて、あれよこれよと探し駆け回りますが、実のところ、そこには答えがない気がします。
答えは、心の中。自分と親との関係性の中に深く沈んでいるのではないでしょうか。

私は最近、子供に対して、求めること。足りないな~。もう少しこうなってほしいな~。って思うことって、私自身に思うことと似ているな~って思うんです。

子を恥かしく思う親は、親(自分)自身も自分を恥かしい存在だと、どこかで思っている。
子供を邪魔だな~と思う親は、自分も邪魔な存在じゃないかと、しばしば思う。
子供を拒絶してしまうことがある親は、自分自身を拒絶したり、自分は、ダメな親だ~などと責めてしまうことがある。
子供をいじめてしまう心理が働いてしまう親は、自分自身に意地悪をするかのように、自ら貧乏くじを選んでしまう。悲劇のヒロインになってしまう。等…

つまり、子供をどうするとか、こうするを考えるよりも、まず、自分を癒すことが、先決ではないかと思います。そして、癒しのプロセスには、親との関係性が、大きな鍵を握っていることも間違いないと思われます。
自分を癒す。
親との関係性を見直してみよう!
子育てを今までと違った視点で仕切り直そう!
など、思った方は、「記述式内観」受けてみてはいかがでしょうか?
それまでとは、違った自分、親、子供が発見できますよ(^-^)!





    











2010-08-03

句読点

子供の宿題を覗いてみると、歴史を勉強していました。
「この詩文は、誰がかいたでしょう?」などと言う問題などがありました。
う~ん…???
もうすっかり私は、忘れていました。
色々思いだしても、頭に浮かぶのは、百人一首の数句です。
「鳴かぬなら~鳴かせてみよう ほととぎす♪」
これは、百人一首ではありませんね(^^;)
まぁ~そんな次元です。
自分をかばうわけではないのですが、古い詩文は、情景がわかりにくくて、記憶に残りにくい。
「ありにけり」  あるのか、ないのかわかりにくい。
古い詩文ほど、句読点がないので、わかりにくく思います。
なんて、思いながら、古い詩文を読むと、意外とどちらの意味にも取れることが多いんですね。
例えば、私が「はかない」のか、花の命が「はかない」のか、どっちなんだ?と思うような詩文がありますが、これに正解があるんだろうか?と思います。

そう。
ほんとうのことは、言葉や文字では、表現できないんもんなんですよね。
「伝える」こともそう。
数字や文字を伝えることは出来ても、景色や、色や、気持ちなんて言うものは、言葉にすると、時どき嘘になってしまったりするものです。
子供に太陽を画用紙に描かせても、太陽を赤で色をつける子もいれば、黄色の色をつける子もいます。そんなものだと思います。
「私」がそう思うこと。のようです。

現代に近づくにつれて、詩文に句読点がつくようになったように思います。私は、文学のことはわかりませんが、人々の心の恐れが、詩文に句読点をつけるようになったんじゃないかと思います。
感じることを、ある一定の枠に当てはめて、文字をくくるようになったんじゃないかと思うのです。
自由に感じることを恐れて… 

いつごろからでしょう~?
規則や、常識というものが生まれたころからでしょうか。

言葉は、便利なものです。
他の動物と違い、人間が地球上で発展を遂げた理由に、言葉を手段にしたことが、1つあげられる。と思います。
電化製品なんかも、とても便利です。使用することが当たり前になっていて、いえ、当たり前になりすぎてしまって、本来の目的を忘れてしまうほどです。壊れた時にはじめて、気づくほど、当たり前です。

つまり、使えば使うほど、便利になれば便利になるほど、忘れてしまうものなんじゃないかと思うのです。
大事なことを。です。
ほんとうのことを。です。

古い詩文=私にはわかりにくいと感じる詩文は、頭で理解しようとするからわかりにくいのかもしれません。
な~んとなく、その詩文に浸ることが、答え探しではなく、その答えなのかもしれません。

ときどき丸い目で、チンプンカンプンなことを話す子供の言葉にも、同じものを感じます。
正解の答えなんかは、重要なことではないようです。大人がまともに答えようとすると、丸い目は困惑した表情になるでしょう?
わからないでいるのは、丸い目の子供ではなく、何者かにとらわれ、見る目を失った大人の心かもしれません。












プロフィール

そわか

Author:そわか
大阪で、気功、整体、内観研修を行っています。
現代人に多い、ストレスや、自律神経に焦点を当て、心と身体の両面からアプローチする方法で、日々施療を行っています。
また、記述式内観という方法で、トラウマや人間関係や子育てにおける悩みの部分を解決するべく、本来の自分らしさを取り戻しポジティブに生きるといった研修を行っています。
2人の娘を持つ、ママヒーラーです。

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